日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン

まだ手探りで自分の飛行機を工夫して試作していた時代

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2005年06月

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= 三重県水産講習所と日本航空輸送研究所 =  
 飛行機を利用した魚群の捜査は,三重県水産講習所と日本航空輸送研究所(井上長一)が提携して1923年10月25日から3週間にわたって実験を行なった.このときは航空局から3500円の奨励金が得ていた.
 飛行機(水上飛行機ちどり7号)を利用して1923(大正12)年11月16日から29日まで13日間の魚群探しが行なわれた.これは農商務省と日本航空輸送研究所の官民協力で実施された.その結果として,魚群の発見には非常に効果があることは確認できたが,せっかく発見した魚群の位置情報を漁船へ適確に連絡する手段がまだなく,この時は伝書鳩を試用していたが,あまり有効ではなく,今後はやはり無線電信や電話が必要になることを予想している.

静岡県と根岸錦蔵

 ついで福長飛行研究所出身の飛行士:根岸錦蔵と今井小まつが静岡県と協力して,魚群の捜査飛行を1927(昭和2)年10月より試験的に初めた.さらに八丈島を基点とする周辺の海上で魚群を捜査する飛行が1928(昭和3)年6月から本格的に実施されれた.この作業に使用した複葉機は,10式艦上偵察機を民間向けに改造した三菱式R1.2型飛行機だった.
 水産試験場の助手となった根岸錦蔵は飛行機で魚群を探し出し,魚群の位置を紙片に書き込み,専用の茶筒に入れて指定された海上にいる漁船に投下する方法をとった.このため,海図とコンパスを購入するための補助金を漁船1艘当たり10円ほどだが,県が負担した.
 ところで飛行機の方位表示は360度,漁船のコンパスは32方位だから,空から海への位置データの変換が面倒な作業だった.魚群を探す複葉機の基地となる飛行場は,三保飛行場を使用した.おもに駿河湾のトンボ鮪群の発見に有効だった.こうして漁獲量は増加したが,県水産試験場製造課が余分になった鮪などを缶詰にして出荷することになった.
 魚群の海上捜査飛行は,1929年(S4)5月になると八丈島を中心に2時間程度の作業となった.しかし静岡県では1930年(S5)6月より日本飛行学校,東京航空輸送社との魚群探見飛行に切り換えた.
 魚群探しに使用する飛行機は,海防義会から無償で貸与されたもので,「中島式三号イスパノ300馬力義勇」第8,9号の2機が利用された.その飛行機は三保の真崎を根拠地として,天候などに支障のない限り捜索飛行を行なった.飛行機には飛行士と無線電信士,魚見役の漁夫の3人が乗り込んだ.

やっぱりF1はおもしろい.

2005年の米国GPのことだ.
タイヤについては,問題のないブリヂストンを付けたチームの6台のレースになってしまった.
当たり前だろう,ファイアーストン・ブランドでインディ500に出場しているのだから.
ブリヂストン・タイヤをつけたフェラーリだけが,バンクのついたカーブ13にシケインを設けて,ミュシュラン・タイヤの救済案として9チームが合意したのに反対したのだから......
つまり,もしシケインを追加して米国GPを開催したら,フェラーリは出走せず,18台でレースが行なわれたのだろう.
これでは,いつもと大差のないF1レースになってしまう.
要するに,FIAとフェラーリは関係が出来上がっているようだ.
日本のタイヤ・メーカーも,ミュシュラン並みのクレーム対応の力は必要だろう.
ラルフ・シューマッハのタイヤ・トラブルが発生してから,スペイン仕様のタイヤを急遽,製造してレース当日の朝までに用意して,安全を保証する条件を守ったのだから.....
しかし,これで米国でF1を開催することが2006年も可能なのだろうか?
今回は11万人の観衆がいたそうだが.......
米国では,F1なんてインディ500に比べるとあきらかにレベルが劣るというイメージが出来てしまったのだ.
たかだか,350km/hで9度のバンクに耐えられないレーシング・カーの自動車競争のどこがおもしろいのだ.
コース上では,追い越しがないF1のレースは,燃料補給の間に順位が代わってしまい,ずっと見ていないと順位が判らないレースなんて複雑すぎてつまらない.
 次回のフランスGPがどうなるのか,楽しみが増えた.

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◇石橋式スパッド13型競技飛行機 SPAD13 Racing-plane

 
石橋勝浪(千葉県海上郡三川村生まれ,幼名は勝太郎)は第一次大戦において,バロン滋野と同じ時期にヨーロッパの戦場に駆けつけてフランス軍に少尉として参加した.戦場は主に海軍とともに従事して水上機や飛行艇を扱う操縦士の業務を担当した.ジオン・ド・ヌール勲章をもらって1920年7月ごろに帰国した.
 日本ではフランス仕込みの飛行士として石橋勝浪は新聞に取り上げられて有名になったが,ロシア義勇艦隊(日露戦争前に有事に備えて高性能商船をストックしておく帝政ロシアの予備艦隊)に所属していた軍艦マギリヨフ号が1920(大正9)年3月ころ門司に入港していた時に,積荷のスパッド13型戦闘機3機をフランス大使館より3機まとめて2万4000円で購入した.ところが群馬県尾島飛行場にある中島飛行機製作所の格納庫において,飛行大会に出場する準備として機体を組立て整備をしていたのだが,1921年8月に格納庫に火災が発生し焼失してしまった.
 やむなく石橋飛行士は予備部品と図面によって,国産スパッド13型民間機を武田鶴三機関士,北郷涼練習生らの協力を得て自力で製作した.こうして自作した機体に装備した発動機はセール・フレザー商会から購入したイスパノ・スイザ180馬力で,原型の220馬力よりも低出力だったが,長距離飛行競技会に参加するために胴体の重心位置の下部に燃料タンクを増設した.このため胴体下部が膨れた太目のスパッド13型になった.石橋勝浪飛行士は高速機の操縦を得意としていたから,1921年11月に開催された金沢〜久留米間の第4回郵便飛行競技大会に参加したが,途中向かい風に会い燃料が不足したため福山に不時着して失格となった.さらに1923年11月に開催された東京〜大阪間の定期式郵便飛行競技大会では最高速を発揮したが反則があって優勝を逃した.
 なおスパッド13(SPAD XIII)は,フランスの単座戦闘機として第一次大戦では連合国の代表的な複葉機だった.およそ8500機が製作され,日本には100機ほど輸入された.

◇石橋式スパッド・エルブモン20競技飛行機 SPAD Herbemont20 Racing-plane

 
また石橋勝浪飛行士が陸軍の丙式二型複座戦闘機(スパッド・エルブモン20)とは別にフランスから1機を1922年に単座の長距離レーサー(イスパノスイザ水冷式V型8気筒300馬力)として購入した.フランスより船で関税の掛からない大連(当時は日本が支配していた)に運ばれてきた.石橋飛行士は大連でスパッド・エルブモンを水陸交替式として組立てた.この機体でまず試験飛行を行ったが,民間機として宣伝飛行をした後に,大連から平壌まで移送して,東京までの連絡飛行(平壌〜群山〜太刀洗〜八日市〜浜松・高師が原〜立川:2160kmを14時間4分で)に1923年6月1〜14日に成功した.
 このほかにも民間の飛行士として石橋勝浪は,東西定期航空会にも参加して民間機を運航した.
ほかに民間用のスパッド・エルブモンは,陸軍の丙式二型複座戦闘機1機が大阪毎日新聞社に払い下げられて,通信連絡機として使用されていた.

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